
藝術聚焦|山本尚志〈我從井上有一身上學到什麼、捨棄什麼、又構築了什麼〉
異雲書屋於2025台北藝博,展出日本書道家 山本尚志 的作品。
山本尚志(Hisashi YAMAMOTO) 於1969年出生於廣島。
1988年,山本尚志進入東京學藝大學書法系 不久後,接觸到了井上有一的作品,深受啟發,決定走出自己的書法風格,並於20歲時自稱為書法家,正式展開其藝術創作生涯。
曾參與東京UNAC 的《 井上有一全集 》編纂工作,爾後決意走出井上有一的影響。2004年,在藝術評論家 海上雅臣 的邀請下,成立以井上有一為主題的群展「天作會 」,並在34歲時首次以藝術家身分展出作品。
此後參與「天作會」長達12年,並於2015年在UNAC Salon舉辦首次個展《Machine》,引起廣泛關注。翌年出版藝術作品集《舟》(YKG Publishing)。2016年於Yumiko Chiba Associates舉辦個展《flying saucer》,2018年擔任全球首場以書法為主題的藝術博覽會「ART SHODO TOKYO」策展人。
隨後陸續舉辦多場個展,包括2019年的《ENTRANCE⇔EXIT⇔LID⇔BOTTOM》,2024年的《Naming The World》,並於2020年參與Yumiko Chiba Associates舉辦的《現代書藝術的世界2:符號與時代》。2023年參與於台灣橫山書法藝術館舉辦的橫山書藝雙年展《法與無法交織的年代——書法作為一種視覺形式》。
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原文標題|私は井上有一から何を学び、何を捨て、何を構築したか
文|山本尚志
井上有一は、「余白」という言葉は使わなかった。
井上有一從不使用「餘白」這個詞。
そのかわり、「空間」という言葉を使った。だがしかし、実際に作品に現れているのは、書かれている部分と、そのまわりの余白との責めぎあいだ。
他所用的,是「空間」這個詞。然而實際呈現在作品中的,卻是筆畫所在之處與其周圍餘白之間的角力。
実際、どうしてこのようなことになっているのかと言えば、人間の動きは有限なものであり、紙の上のどの部分にも達する事はないから。
至於為什麼會如此,那是因為人的動作是有限的,不可能觸及紙面上的所有部分。
つまり、あるところにだけ人間の動きが存在して、あるところにはない。
すなわち、人間の動きは、書道においては、全体をオールオーバーに構成しているのではないということだ。
換言之,人的動作只存在於某個地方,而在另外的地方則不存在。
也就是說,在書道中,人的動作並不是以「整體均勻覆蓋」的方式來構成畫面。
井上はこのことを書道とは、コンポジション(文字を構成すること)ではなくてコンストラクション(文字の中にもともとある構築)だと言った。
つまり、結果的に書かれた内容が、自然のうちに自ら構築を行うわけで、書家は最初から構築をしようとして書いているのではないということ。
井上說,書道並非「構圖」(以人為意圖去組成文字),而是「構築」(文字本身內在原有的結構)。
換句話說,最後呈現出來的內容,是在自然的過程中自我完成了構築;書家並不是一開始就以構築為目的來書寫。
仮にもしそれをやるとしたら、井上有一は書道を絵画の構成術のようなものだと感じていたと思う。しかしそのような記述はどこにもない。
假如真要那麼做,井上有一可能會覺得,那就變成了像繪畫那樣的構成技法。然而,他的著述中從未有過這種說法。
実際に自分が書道をやっていて思っていたのは、文字以外の何も書けないというところ。という事は、文字、すなわち自分だけで何かを完結させないといけないということだ。
我自己在實際書寫時的感受是:除了文字,什麼也無法書寫。這意味著,必須僅憑文字,也就是僅憑自己,去完成整個作品。
結果、書家たちはどうしていたかと言えば、人の文学作品から拝借をしたり、そしてそれを近代詩文書と名付けて、それでよしとしていたところがあった。
僕はそれを解消しようとして、すなわち現代性と書道の両立を図るために、図形と書道の部分をミックスさせた。その理由は、僕の作品とステートメントを読めばわかると思う。
那麼,結果書家們是怎麼做的呢?他們會引用他人的文學作品,並將其稱為「近代詩文書」,並且以此為滿足。
而我試圖打破這一點——也就是為了在「現代性」與「書道」之間取得平衡,我將圖形與書法結合起來。理由從我的作品與聲明中應該可以看出。
そうすることで、画面が自分の思い通りに動くようになった。当たり障りのない文字だけを書いていることと比べて、禅画のように「これはなんぞや」という問いかけと答えが生じる。それはコンセプチュアルアートのタイトルとオブジェの関係と同様のものに感じた。
這麼做之後,畫面能依我的意志運作。與僅僅書寫無傷大雅的文字相比,作品能如同禪畫般引發「這是什麼?」的提問與回應,這讓我覺得與觀念藝術中「標題與物件」的關係十分相似。
そして、紙面に書くときにも、文字だけだったら、それ以外のところにはどうしても書けない。すなわち余白が残るから、そこで不満が生じる。だけど、あらかじめ自分がこういうものを書こうと、図形を書き、そこに文字を入れ込むと、それが解消されるというわけだ。
此外,在紙面上書寫時,若只是文字,那麼其餘部分無法填滿,餘白自然會留下,進而產生不滿。然而若事先決定要創作某種形狀,先畫出圖形再將文字嵌入其中,就能消解這種不滿。
つまり、自分は書道の作法を崩さないことを決めた。色彩を使うのでもない、アクションを途中で分断することもない。すなわち記号とは有限なものであって、常に決められた形であるということから、筆順が存在し、それが動きの連続を生む。
換句話說,我決定不破壞書道的作法。不使用色彩,也不中途斷開動作。因為符號是有限的、固定的形態,所以才有筆順的存在,而筆順會生成動作的連續性。
例えば最初に門構えを書いて、中に「耳」とか、「日」とかを書くようなものだ。
つまり、図形を描きその中に文字を入れ込むことは、新しい文字を発明したようなもので、それ以上の事は実はしていない。つまり、書道の作法を頑なに守ろうとして、自分はそのようなことをやってきた。
例如,先寫出「門」的構形,再在其中寫上「耳」或「日」之類的部件。
也就是說,先畫出圖形,再將文字嵌入其中,就像是發明了一個新文字,其實並沒有做更多的事。我只是頑強地堅守書道的作法,一直以來都這麼做。
こうした発想も、何もかも、私は書道から学んだ。だから、学んでいない人は、書道の中からは何も発見できないだろう。
這樣的想法與一切啟發,我都是從書道中學來的。所以,沒有學過書道的人,恐怕無法從中發現任何東西。
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這是一場小恐龍的競賽——牠從建築物腳下的入口進入,穿越至空中的金字塔之中,競爭誰能最快從滑梯中逃脫。腳部的入口是一座電梯,也就是現代的工具。而在上方等著的,卻是古代的建築物——金字塔。更進一步說,恐龍本是存在於人類文明出現之前的生物,原本便不可能參加這樣的遊戲。這個虛構設定,超越了時間、空間,甚至超越了「存在的必然性」,正是我們人類透過想像力去創造某種事物的行為本身。只要在自動生成的圖像上寫上「遊戲」兩字,一切就得以成立。說不定,我們人類也正參與著某場無法預測其走向的時空遊戲。
⼩さな恐⻯が、建造物の脚元から⼊って空中のピラミッド内に⼊り、滑り台からいち早く脱出出来るかどうかを競うゲーム。脚の⼊⼝はエレベーターであり、現代の道具だ。そして上には古代の建造物であるピラミッドが待ち構える。さらに恐⻯は⼈間の⽂明以前の⽣き物であり、このようなゲームに参加することはそもそも不可能だ。時間も空間も、存在の必然性すらも超えるこのフィクションは、我々⼈間が想像⼒によって何かを創り上げるという⾏為そのものだ。オートマチックに描かれたものに「ゲーム」と書くことで全てが成り⽴つ。⼈類もまた、先のわからない時空を超えて、何かの「ゲーム」に参加しているのかも知れない。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025

有時候,那些看起來是雲的,其實是UFO;而那些以為是UFO的,結果卻只是雲。這樣的事情,是有可能發生的。我們想像著在天空中飛翔的UFO,並對其有所期待。我們總覺得,除了人類之外,應該還有某種未知的存在,時時刻刻注視著我們。但現實是,UFO大概並不存在。存在的,只有我們人類自己,以及想像中的UFO而已。我們之所以假設UFO的存在,或許是因為不願相信自身是宇宙中的唯一。也許在某個遙遠星球上,有著與我們相似的存在,過著和我們一樣的日常生活,經歷痛苦,也分享喜悅。這種設想,是出於一種「同類意識」的渴望吧。然而,UFO終究並不存在於任何地方。我只能去想像一個與我相似的他者。或許,正因為UFO只存在於我的想像之中,它才是最接近我的存在。那艘UFO,今天也應該仍然在雲層中徘徊著吧——就如同此刻的我一樣。
雲かと思っていたら、それが UFO だったこともあるし、UFO だったと思ったら、それが実際には雲だった。そういうこともあるだろう。私たちは空を⾶ぶ UFO を想像する。そして、期待するのだ。我々以外にも、未知の存在があり、そして我々のことを常に⾒つめているのではないかと。実際に UFO はおそらくいない。いるのは、我々⼈類と、想像の中の UFO だけだ。UFO を仮定するのは、なぜかと⾔えば、我々の存在を唯⼀のものとせず、別の星にも我々と似たような存在がいて、同じように⽇々⽣活をし、苦しみ、そして喜びを分かち合う。そういった同族意識からではないか。しかし、UFO はどこにもいない。私は私に似た誰かを想像するしかないのだ。想像の中にしかない UFO こそが、最も私に近い存在なのかもしれない。その UFO は、今⽇も雲の中を、きっとさまよっているはずだ。この私と同じように。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025

UFO其實並沒有特定的形狀。我們所認為的UFO究竟是什麼樣子呢?阿達姆斯基型、雪茄型、圓盤型——過去曾經出現過各式各樣的想像。但正如其名所示,「UFO」是一種「未確認飛行物體」,本就沒有人真正確認過。我們不能忘記這一點。這世上仍有我們尚未看見的某種存在,也有尚未被確認的未來。就這樣,透過我的手流洩而出的UFO之形,乃至其文字,無一不是超出我預想之外的事物。我將那樣的東西,作為「UFO」書寫下來。
UFOに特に決まった形はない。自分たちが考えているUFOとは、どういったものか。アダムスキー型、葉巻型、円盤型、かつては色々あっただろう。しかし、その名前の通り、これは未確認飛行物体であるから、もとより誰も確認などしていないのである。我々はそのことを忘れてはいけない。我々はまだ見ていない何かがある。確認できていない未来があるのだ。こうして、手を伝って出てくるUFOの形も、あるいはその文字も、私が予想していなかったものばかりなのである。そういうものを「UFO」として書いた。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025

透過宇宙船的窗戶,一艘UFO正逐漸接近。(也許是敵人。)我凝視著那道光,心中自問——應該將他們擊落嗎?答案是否定的。因為他們或許不是敵人,而是來自未知的朋友。我們在窗的兩側,彼此凝視。在那交會的視線深處,浮現出超越對立、邁向共存的可能性。〈The Approaching Enemy Craft〉描繪的是,人類在面對未知之時,如何超越恐懼,渴望理解的那顆心。而這一切,只需持續地凝視,便已足夠。
宇宙船の窓越しに、UFOが近づく。(敵かも知れない)私はその光を見つめ、問う――彼らを打ち落とすべきか?答えは否だ。彼らは敵ではなく、未知の友かもしれないから。窓の向こうで、私たちは互いを見つめ続ける。その視線の先に、対立を超えた共存の可能性が浮かぶ。「The Approaching Enemy Craft」は、未知との出会いを通じて、恐れを乗り越え、理解を求める人間の心を映し出す。それには、ただ見つめ続けるだけでよい。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025

怪人,究竟是人?是獸?還是我自身的化身?我對自己如此提問——這樣的提問本身,就構成了這件作品。我以為自己在描繪「怪人」這個對象,但實際上,我是在描繪我自己。第二天,我又再度創作一件作品。這一系列名為「怪人」的創作,如今已累積至一百體之多。在書寫的過程中,我感覺自己的存在不斷擴張。試圖固定某個詞語的瞬間,它卻從掌心溜走,變形、轉化。每當如此,一個新的「怪人」便隨之誕生。我或許正是在書寫與詞語一同不斷偏移、游移的「我自己」。在那個意義始終無法固定、總是被延遲的世界裡,我與文字一同,在紙面上旅行。我認為,這就是「行動」的本質。昨日的我與今日的我,行動的方式不盡相同。而正是這樣的變化,孕育出形形色色的「怪人」。我正進行著一場時間的旅行,也正享受著那個不斷變化的自己。
怪⼈とは⼈か、獣か、それともこの私⾃⾝の化⾝なのか。⾃分⾃⾝にそう問いかける。その⼀連が、この作品だ。私は「怪⼈」という対象を書こうとして、実は⾃分⾃⾝を書いていたのである。そしてその次の⽇もまた作品を作る。この「怪⼈」のシリーズは合計 100 体にも達する。書いていく中で、⽇々⾃分が増幅していくような感覚なのだ。⾔葉を固定しようとして、いつの間にか、掌からどこかにすり抜けていき、変化する。そのたびに新たな「怪⼈」が⽣まれる。私は⾔葉と共に、ズレ続ける「私⾃⾝」を書き続けているのかもしれない。意味が定まらず、常に先送りされていく「差延」の世界を、私は紙の上で⾔葉と共に旅している。それがアクションをすることの正体だと思う。昨⽇の私と今⽇の私の動き⽅は違う。それがそのままいろいろな「怪⼈」を⽣み出す。私は時間の旅をしているし、変化する⾃分を楽しんでいるのだ。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025

怪人,究竟是人?是獸?還是我自身的化身?我對自己如此提問——這樣的提問本身,就構成了這件作品。我以為自己在描繪「怪人」這個對象,但實際上,我是在描繪我自己。第二天,我又再度創作一件作品。這一系列名為「怪人」的創作,如今已累積至一百體之多。在書寫的過程中,我感覺自己的存在不斷擴張。試圖固定某個詞語的瞬間,它卻從掌心溜走,變形、轉化。每當如此,一個新的「怪人」便隨之誕生。我或許正是在書寫與詞語一同不斷偏移、游移的「我自己」。在那個意義始終無法固定、總是被延遲的世界裡,我與文字一同,在紙面上旅行。我認為,這就是「行動」的本質。昨日的我與今日的我,行動的方式不盡相同。而正是這樣的變化,孕育出形形色色的「怪人」。我正進行著一場時間的旅行,也正享受著那個不斷變化的自己。
怪⼈とは⼈か、獣か、それともこの私⾃⾝の化⾝なのか。⾃分⾃⾝にそう問いかける。その⼀連が、この作品だ。私は「怪⼈」という対象を書こうとして、実は⾃分⾃⾝を書いていたのである。そしてその次の⽇もまた作品を作る。この「怪⼈」のシリーズは合計 100 体にも達する。書いていく中で、⽇々⾃分が増幅していくような感覚なのだ。⾔葉を固定しようとして、いつの間にか、掌からどこかにすり抜けていき、変化する。そのたびに新たな「怪⼈」が⽣まれる。私は⾔葉と共に、ズレ続ける「私⾃⾝」を書き続けているのかもしれない。意味が定まらず、常に先送りされていく「差延」の世界を、私は紙の上で⾔葉と共に旅している。それがアクションをすることの正体だと思う。昨⽇の私と今⽇の私の動き⽅は違う。それがそのままいろいろな「怪⼈」を⽣み出す。私は時間の旅をしているし、変化する⾃分を楽しんでいるのだ。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025

怪人,究竟是人?是獸?還是我自身的化身?我對自己如此提問——這樣的提問本身,就構成了這件作品。我以為自己在描繪「怪人」這個對象,但實際上,我是在描繪我自己。第二天,我又再度創作一件作品。這一系列名為「怪人」的創作,如今已累積至一百體之多。在書寫的過程中,我感覺自己的存在不斷擴張。試圖固定某個詞語的瞬間,它卻從掌心溜走,變形、轉化。每當如此,一個新的「怪人」便隨之誕生。我或許正是在書寫與詞語一同不斷偏移、游移的「我自己」。在那個意義始終無法固定、總是被延遲的世界裡,我與文字一同,在紙面上旅行。我認為,這就是「行動」的本質。昨日的我與今日的我,行動的方式不盡相同。而正是這樣的變化,孕育出形形色色的「怪人」。我正進行著一場時間的旅行,也正享受著那個不斷變化的自己。
怪⼈とは⼈か、獣か、それともこの私⾃⾝の化⾝なのか。⾃分⾃⾝にそう問いかける。その⼀連が、この作品だ。私は「怪⼈」という対象を書こうとして、実は⾃分⾃⾝を書いていたのである。そしてその次の⽇もまた作品を作る。この「怪⼈」のシリーズは合計 100 体にも達する。書いていく中で、⽇々⾃分が増幅していくような感覚なのだ。⾔葉を固定しようとして、いつの間にか、掌からどこかにすり抜けていき、変化する。そのたびに新たな「怪⼈」が⽣まれる。私は⾔葉と共に、ズレ続ける「私⾃⾝」を書き続けているのかもしれない。意味が定まらず、常に先送りされていく「差延」の世界を、私は紙の上で⾔葉と共に旅している。それがアクションをすることの正体だと思う。昨⽇の私と今⽇の私の動き⽅は違う。それがそのままいろいろな「怪⼈」を⽣み出す。私は時間の旅をしているし、変化する⾃分を楽しんでいるのだ。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025

我小時候,親戚家鋪著一張虎皮地毯——那是真正從老虎身上剝下來的皮,攤平後鋪在地板上。至今我仍然記得,每次看到它時,心中都會猛然一驚。在人類的歷史中,我們狩獵、征服,將自然轉化為自身權力與快樂的工具。曾經威風凜凜地生存於野性的老虎,如今卻成為腳下的地毯,象徵著人類的支配與裝飾。然而,這件作品所描繪的,並不僅僅是一張虎皮地毯。它呈現的是,我們人類文明內部的矛盾。我們將野性本身,為了自身的滿足而加以改造與佔有。但在今日,隨著瀕危物種保護法的制定與實施,這種對自然的利用已受到嚴格限制,我們也來到了一個必須反思過去行為的時刻。〈The Tiger Rug〉正是一件邀請我們回望歷史行為,並重新思索人類與自然共存可能性的作品。
私が⼦供の頃、親戚の家には⻁の敷物が敷いてあった。⻁の⽪を剥いだシート状のものだ。私はそれを⾒るたびに、ぎょっとなっていたことを今でも思い出す。⼈間はその歴史の中で、狩り、征服し、⾃然を⾃らの⼒と快楽の道具へと変えてきた。その象徴的存在が⻁の敷物だったのである。かつて猛々しく⽣きていた⻁は、⾜元に敷かれ、我々の虚栄のマスコット的存在になっていたのだ。この作品に描かれているのは、我々⼈間の⽂明の⽭盾である。私たちは野⽣そのものを、⾃らの満⾜のために作り変えてしまった。けれども現代においては絶滅危惧種保護法の制定により、その利⽤は厳格に制限され、過去の⾏為を省みる時に差し掛かっている。「The Tiger Rug」は、我々の歴史的⾏動を冷静に省察し、⾃然との共⽣を模索するための作品である。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025

這是一種有著獨特規則的遊戲——只要能在烤年糕時,讓它一次膨脹出兩個鼓包,就算贏了。但這幾乎難以實現。一次次重來的過程中,年糕會漸漸被消耗,最終完全消失。這並非不可能。但在抵達成功之前,所投入的努力與材料,無疑都將被消耗殆盡。而且,無論是贏是輸,那些失敗的年糕也不會回來。它們會被丟棄。最終,現場只剩下一堆被浪費掉的年糕殘骸。所謂伴隨犧牲的「奇蹟式抵達」,恐怕正是如此吧。
餅を焼き、一度に二つの膨らみを作れれば勝ちという独特なルールのゲーム。なかなか実現は難しいし、何度でも繰り返すうちに、いつのまにか餅は消費され、やがて無くなってしまうだろう。不可能ではない。しかし、実現までの労力と材料は間違いなく消費される。そして、ゲームに勝っても負けても、失敗した餅は戻ってこない。捨てられてしまう。結果、大量の廃棄された餅の山が、そこに残る。犠牲を伴う「奇跡的な到達点」とは、そのようなもの。—— 山本 尚志 (Hisashi YAMAMOTO), 2025
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